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zoom RSS 『アジャミ』 ヤロン・シャニ&スキャンダー・コプティ監督 その2

<<   作成日時 : 2012/10/10 02:50   >>

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つづいて、『アジャミ』についての監督インタビュー邦訳をどうぞ。本作は二人の監督によって撮られたものですが、訳したものはスキャンダー・コプティ監督(写真右)の単独インタビューになっています。『アジャミ』の意図、イスラエルの現実、そしてアカデミー賞ノミネート時の議論を呼んだ発言について語っています。

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なお、本作の「その1(紹介・感想編)」はこちら、
http://planeta-cinema.at.webry.info/201210/article_1.html
インタビュー原文はこちらからどうぞ。
http://www.screenrush.co.uk/news/films/news-18498375/

※時間があれば、また別のインタビューについても訳したいのですが……。

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――共同監督のヤロンさんとの初めての出会いは?
 私は2001年に機械系エンジニアとして学校を卒業したのですが、エンジニアとして生きてはいかないと決心していました。それで、何かが起きるのを待っていたんです。そんなときに、ちょうどテル・アビブ大学を卒業したばかりのヤロンが、プロジェクトを持ってきたんです。それは、5人の人間にカメラを渡して映画を撮ってもらうというもので、私はその5人のうちの1人になったんです。

――どのように物語を作り上げていったのですか。
 ヤロンはすでに脚本を準備していました。それ自体は『アジャミ』とは違うものでしたが、基本的な構成は『アジャミ』につながるものでした。つまり、同じ現実について、たくさんの異なる視点に基づいて描かれるというものです。それで、私たちはこの構成にフィットするような物語をアジャミの街で探し始めましたんです。私には多くの知人がいたので、様々な物語を知っていました。私たちは実際にあった物語をすべて集めて、この複雑な構造のなかに押し込んでいきました。最初の草稿が完成したのは、それから三年半後のことでした。

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――すべての役が素人によって演じられたというのは本当ですか。どこで彼らを見つけたのでしょう。
 どのキャラクターもみな素人の役者です。彼らは脚本を渡されなかったので、映画がどんなものかも分っていませんでした。私たちはただアジャミ中から人間を集めてきて、演技の練習をするワークショップに一年ほど参加してもらいました。そこで私たちは彼らに即興で演技するやり方を教えたんです。即興は基本的に、私たちにとっては誰にでも可能だと思えた、とてもシンプルなメソッドです。誰もがフィクションのシチュエーションの中で、本物の感情をもって反応する能力を持っています。これは知らず知らずのうちに私たちみんながしていることです。たとえば、映画を見ているとしましょう。映画は完全にフィクションで、あなたの人生にはなんの関係もありません。それなのに、あなたは笑ったり泣いたりと、本物の感情をもって反応してしまうのです。これが、私たちが用いた基本的なメソッドです。こうしたことを達成するために、私たちは役者に対しては、何が起きているのかを決して教えないようにしました。まず私たちはカメラの前で彼らが落ち着いていられるようにします。私たちは一年間のワークショップをして、いつもカメラを周りに置いておくようにしました。というのも、突然カメラのスイッチが入ると、普通の状態ではいられなくなって「演技」してしまい、普段の状態を出せなくなってしまうからです。ですから、ワークショップのなかで私たちは役者たちと親しくなり、私たちが望むものを得ようとするときにはどのボタンを押すのかを知ってもらおうとしました。
 私たちは、自分たちが書いたキャラクターにとても似ている人たちを選びました。たとえば、この映画で警官を演じているのは、以前警官だった人間です。だから彼らには、それがどういうものか分かっているんですね。彼らの人生だったわけですから。彼らは警官のように話しますし、どのような手順を取るのかも知っています。映画の撮影を始めると、即興で撮るわけですから、カメラを二台使用しました。途中で止められないので、私たちは役者たちに、どこに立っていなきゃいけないとか、何を正確に言わなきゃいけないとかいったことは伝えませんでした。それから、精神的にも脚本的にも役者たちを記録していけるように、時系列に沿って撮影しました。

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――お二人に影響を与えたものはなんでしょうか。
 私もヤロンも、映画への愛、人間への愛から出発しています。映画の中で私たちの興味を引くものは、人間のドラマです――人々の行動について、なぜ彼らはそうしたのか、ということです。それから私たちは、彼らの立場に立ち、彼らの動機を理解したいと思っています。個々に、あるいは一緒に、私たちはたくさんのドキュメンタリーを見ました。その経験が、私たちが芸術にしたいと思うものを形作っていきました。またケン・ローチの映画、あるいは彼のようにプロではない俳優を起用して人々の本物の感情を引き出そうとする映画にも影響を受けました。映画を観ているとよくあることですが、俳優がおそらく上手に演じているはずなのに、それが現実の生活のなかで起きるような仕方でなされていないと感じることがあります。ですから、脚本を書くときにも、それからあらゆるプロセスにおいても、私たちは現実に基づいて作業をするようにしました。私たちは決して、「映画だからこういう風にもできるだろう」なんて言ったりはしませんでした。私たちは、単なる想像に基づいて何かをすることは絶対にしなかったんです。いつでも、現実に基づいていました。そうするためには、自分が関わろうとする場所についての知識がたくさん必要となるでしょう。現実に肉薄した脚本を書かなくてはなりませんからね。たとえば、アジャミの街で警官がドラッグの売人を逮捕しようとしているシーンを書くとしましょう。それは私が人生のなかで何回も目にしてきた光景です。だから私は現実にはその場合なにが起きるのかを知っていて、そのおかげで脚本を書くこともできるんです。

――オマールが(ギャングたちとの)確執を収めるために多額のお金を払う必要があると言われる調停のシーンでは、そこにいた多くの人々が映画の撮影ではなく現実の話だと思っていたというのは本当ですか。
 あの場で真実を知っていたのは三人だけですね。判事と、オマールの弁護人、それから他の家族の代表者です。それ以外の人たちはみんな本当の出来事だと思っていました。判事が彼らにこれは実際の事件であると言って、カメラクルーはドキュメンタリーを撮っているということになっていました。判事は私たちを手助けしてくれました。というのも、映画としては、私たちはオマールに多額の支払い義務を負わせなくてはなりません。そういうわけで、そういう評決になるようにオマールの物語を整えてくれたんです。これはごまかしであり、騙したように思われるかもしれませんが、最後に私たちはこれがフィクションの映画の撮影であったことを教えました。彼らは、本当の出来事のようだったと言ってくれましたよ。

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――監督は、ドラッグの売人であるビンジの役を演じてもいますね。彼は監督の知り合いの誰かがベースになっていたりはするのですか。
 彼は、二人の知り合いがもとになっています。一人は私の親友の兄弟です。ただし、実際にはビンジというキャラクターは、私自身の特徴に基づいています――現実を笑い飛ばそうとするときに彼がするイタズラやジョークなどがそうです。たとえば彼が砂糖を隠したりするようなときがそうですね。だから、この役は私が演じるということに決めたんです。私は11歳のころから演技をしていて、実際、映画製作の中で一番やりやすい部分が、ビンジを演じるということでした。というのも、そのときには監督であることのストレスから解放されますから。船の舵はヤロンにまかせて、彼がキャプテンになって、私は友人たちと楽しく遊んでいられるというわけです。

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※本作がアカデミー賞外国語映画賞にイスラエル代表の作品としてノミネートされた際に「この映画は形式的にはイスラエル代表だが、私はイスラエルの代表ではない」と発言し、議論を呼んだことについて。
――オスカーにノミネートされた際の発言について後悔はしていませんか。
 後悔していることは何もありません。他人の思っていることを受け入れるのが難しいときは、誰にでもあるものです。とくに、みんなが見て見ぬ振りをしたり、すべてが正しくなされているとよそおったりしているような場所では、ね。私はイスラエルの代表者ではないし、あらゆる人種差別やフェンス、占領、そうしたたくさんの事柄の代表者でもありません。私はそれらの一部になりたくはありません。何よりも、私はこの国に利用されたくはないし、イスラエルのことを多文化的で、リベラルで、民主的な場所として宣伝するのを手伝う気もありません。事実として、この国が非民主的であり、多くの酷い行為をしているかぎりは。

――本作は、監督にとっての個人的なプロジェクトであったと思います。自分がずっと暮らしてきた場所について映画を作るということで、監督は何を意図していたのでしょう。
 物語は、異なる視点から語られます。それらは異なる人々の視点ですが、彼らが暮らしているのは一つの同じ現実です。人生の受け止め方と、それぞれの視点の立つ場所の違いが、人々に酷い行動、暴力的な行動を互いに取らせるのです。もし一度でも、他人の立場に立つことができれば、とくに敵だと見なしているような人の立場に立つことができれば、彼のことを人間として見ることができるようになるでしょう。相手のことを知れば、偏見を持つことは少なくなるはずです。このことが、映画の中で起きていることであり、成功したと思っています。というのも、本作はイスラエルで大ヒットしたからです。20万人もの観客が観てくれました。ほとんどのセリフがアラビア語の映画をユダヤ人が観に来るのは初めてのことでもあり、おまけにこの映画を好きになってくれたんです。彼らが本作を「好きになってくれた」というのは、彼らがパレスチナ人のキャラクターたちを人間として見ているということです。彼らがパレスチナ人を人間として見ないようになって60年が経ってからのことでした。このことは、パレスチナ人にとっても同様です。彼らはこの映画を観て、ユダヤ人の警官であるダンドを人間として見なし、彼に悲しい出来事が起こると涙を流しました。
 それから、私たちは「美しい現実」を見せようとは思っていませんでした。私たちは「現実」を見せたいのであり、普段は話さないようなことの帰結を見せたいと思ったからです。いくらかの人は、この映画が政治的ではないと言います。もちろん、特定の人物を批判していないという意味ではそうでしょう。本作は、「いま起きていることの原因は、あれやこれやのせいだ」とは言っていないですからね。私たちは現実を引き受けて、大きなコピー機を作り上げて、あるがままにスクリーンに写し出そうと決めたんです。不当に扱ったり、ひいきをしたり、現実を美化することなく、あるがままにです。というのも、紛争や対立から作られる映画というのは、大抵の場合、片方の側だけを被害者にしがちです。そうすることで、被害者の側から責任を取り去ってしまいます。だから、多くのパレスチナ人は、彼らを犠牲者にしてくれる映画を期待しているのです。そしてそれは、「私たちが非難すべきはユダヤ人であり、私たちに責任はない」という言い訳を与えます。しかし、この映画は違います。私たちがしているのは、厳しい現実をあるがままに見せることなのです。それは、どちらのコミュニティにも議論を巻き起こすでしょう。人々は何が悪かったのかということを自問するはずです。それが私たちのねらいです。

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――お二人で監督をしなければ、これほどには成功しなかったでしょうか。
 この作品には、アジャミの現実に対する私の視点と、同じ現実に対するユダヤ人の見方についてのヤロンの視点が必要でした。だから、二人で監督する必要があったんです。マーケティングやプロモーションについては、映画がうまくいって良い作品になっていれば、人々は観に来てくれるだろうと思っていました。人々に映画を観に来てもらう要素は、彼らがキャラクターに感情移入することができ、物語を気に入るかどうかです。これが私たちが第一に望んだことでした、つまり良い物語を語ること。一人で監督していたら同じように成功したのかどうか、興行収入については分かりませんが、芸術的な面では間違いなく不可能でした。

――次回作について教えていただけますか。
 二つのプロジェクトが進行していますが、次回作についてはお話しできません。というのも、私のやり方のせいなんですが、次回作でもまた(同じ)俳優たちと仕事をするつもりで、彼らには脚本を渡さないつもりなんです。だから、秘密です。

――『アジャミ』と同じようなテーマなのでしょうか。つまり、監督が知っていることに基づいているような。
 私はあまり自分の想像力を働かせることがないんです。私の想像力はそれほど重要でもなければ、面白くもないんじゃないかなと思っています。現実の方が、私の小さな想像力よりもずっと興味深いんです。

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