ぷらねた 〜未公開映画を観るブログ〜

アクセスカウンタ

zoom RSS 『闇のあとの光』 カルロス・レイガダス監督 その2

<<   作成日時 : 2012/10/27 23:00   >>

面白い ブログ気持玉 4 / トラックバック 0 / コメント 4

それでは『闇の後の光』についてのカルロス・レイガダス監督インタビュー邦訳をどうぞ。今回は二本分のインタビュー記事を訳したので、それなりの内容になっていると思います。映画祭ではQ&Aがなかったので、鑑賞された方はぜひ。映画を観ると気になるようなことについても答えています。

画像


なお、本作の「その1(紹介・感想編)」はこちらからどうぞ。
http://planeta-cinema.at.webry.info/201210/article_3.html

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
○まずはこちらのインタビューから。
http://www.slantmagazine.com/film/feature/interview-carlos-reygadas/316

――『闇の後の光』には心から魅了されました。しかしプレス向け上映が終わったあとで、この映画が何についての映画だったのか、資料を読んで理解しようとしなければなりませんでした。監督は映画を製作しているあいだ、観客のことを考えたりはするのですか?監督は観客に多くを求めているように思います。
 この映画は一見、ミステリアスに見えるでしょう。しかし、単純な解答を与えずとも最後には、どれだけ私があなた方を観客として尊重しているのか、どれだけ私が芸術として映画を尊重しているのか、どれだけ私が自分自身を監督として尊重しているのかを、あなた方が感じ取ってくれるよう期待しています。この映画は、ご覧の通りのものです。それについて後になって話すというのは、誠意を欠いているように感じます。私は観客に多くを要求していますし、どんな制限も設けてはいません。それはおっしゃる通りです。しかし私は自由な人間であり、自分が本当にしたいことをすることが許されています。私はあなた方に、自分のベストを見てもらおうとしているのですし、また私の周囲にいるたくさんの人々が私よりも感性豊かで知的であると確信しています。ひとりひとりの人間に違いがあって、感じる感情が異なればこそ、それぞれが映画を通して自分の道を見つけ出そうとし――そして、この物語について、独自のユニークな解釈をすることもできるのです。ある人はこの映画を大好きになるかもしれません。またある人は、とても正当な理由からこの映画を嫌うかもしれません。さらに言えば、私も同様に観客の一人なのです。私はたくさんの映画を観ますが、私が高く評価するのは、物語を介して自分の手で観客を導こうとはしない監督たちです。私はそうした監督たちの一人として見なされたいと思っています。

――映画にはセリフがそれほどありません。映画は標準的な物語と言うよりは、純粋なヴィジョンだと言えるでしょう。しかし、ストーリーということに関して言えば、監督の脚本はどんなものなのか興味を持ちます。映画のように視覚的な脚本なのでしょうか。
 私はとても詳細なストーリーボードを用意しています。とはいえ、脚本を放棄しているわけではありません。ただ、撮影のあいだに、脚本に書かれていた言葉がみんな、映画的なイメージや音に変わっていくんです。映画は、いわば音を暗示する映像になります。つまり、文字というのは多かれ少なかれ鳥のさえずりのようなものなのです。

画像


――観客を特定の感情へと導こうと思っていますか。男が自分の頭を引き抜くシーンでは笑いも起こりましたが、しかしショックを受けた人もいるようです。
 私はピエロでもサーカスのエンターテイナーでもないので、人々を何か具体的な感情へと導こうとはしていません。観客は単なる人間の群れではなく、それぞれがそれぞれの目、頭脳、魂で感じるのです。ある同じシークエンスがある人には素晴らしいものに思え、ある人には馬鹿げたものに思えることもありえます……私にとっては最高なのにね!特定の感情を狙うということは私にはできません。あのシーンについて、メキシコ人がきわめて固有の反応をするだろうということは予想できます。というのも、メキシコではいま、人々の首が切り落とされているという事実がありますから(※メキシコは死刑を廃止しているので、これは麻薬マフィアのことを指すと思われる)。その仕方で彼らは今も罰せられているし、ヨーロッパの国々でも何世紀も前はそうされていました。だから、あれはメキシコ人にとっては悪い夢に出てくるイメージなんです。でも、私は観客を監督しようとはしていません。

――原題の『post tenebras lux』はラテン語で「闇の後の光」を意味します。ただ、映画を観ていると、光の後に闇が来るというように感じました。タイトルが皮肉を示していると考えているわけではないのですが……それとも皮肉なのでしょうか。
 「闇の後の光」というアイディアが私の心に訴えるものがあったのは、内奥の経験という観点、あるいは西洋の人間になるという観点からだったように思います。ある意味では、私たちは日々の生活で感じるフラストレーションという闇のなかで生きています。ドラマチックな人生を求めているように見えながらも、私たちはなんとか自由になろう、しがらみから解放されようともがいています。しかし、私たちの子供のために世界を啓発することができれば、光が訪れるだろうと期待しています。
 とはいえ、タイトルはラテン語です。なぜなら、そうすることで、このタイトルが西洋と東洋の衝突について多くを語るようになるからです。何世紀も前に、メキシコはヨーロッパの人々に征服されました。しかし、メキシコの文化はいまだに(メキシコとヨーロッパの)二つの背景に由来する異なる、そして正反対の要素が組み合わさって成り立っています。世界のコスモゴニーにおいては、何ものも混じり合うことはありません。いくらかの人たちは実に西洋的だし、他の人たちはそうではないのです。ただし、潜在意識のレベルにおいて、西洋人になるということは、「審判」についての不変の感情をもたらすことになる社会の分離を暗示します。ラテン世界は、当初、そうした西洋人的な観念の影響下にはありませんでした。

画像


――社会の区分ということに関して、監督自身はどちらの側にいるのですか。
 私は同時に両方の側にいると感じています。私はしばらくのあいだヨーロッパで暮らしていたことがあるんです。それから、自国にいても、うまくバランスを取れるようになれば、異なる視点を持って多くのことを深く理解することができるということにも気付きました。

――本作はメキシコ版『ツリー・オブ・ライフ』とも言えるかもしれません。というのも、家族がゆっくりと崩壊していく様子や、自然との親密な関係、過去と未来が垣間見える点、物語が映像によって展開していくこと、そしてセリフが詩的なコメンタリー以上のものではないといった類似点があるからです。
 それはどうも!でも、正直に言えば、テレンス・マリックが『ツリー・オブ・ライフ』を製作する前に本作を撮り終えていましたし、『闇の後の光』はあの作品ほどカトリック的でもなければ帝国主義的でもないと思います。それに、私にとっては映画的な経験の純粋な形式こそが必要不可欠です。私は、映画の要素――映像や音などですね――を対置させるのが好きなのですが、最初から最後まで『ツリー・オブ・ライフ』にはそういうものがありません。

――映像についてですが、フレームの端がぼやけていますね。観客の視線を映像の中心に集めようとしたのですか。『闇の後の光』の世界の中心には何があるのでしょうか。
 中心が何であるのかをお話するつもりはないですよ、それを明らかにするのがあなたの仕事でしょう?(笑)。もし私がすべてを説明してしまえば、全体の構造が崩壊し、あなた方の自由も破壊されることになります。だから、私が何も言わないことに感謝してください(笑)。『闇の後の光』の世界の中心に何があるにせよ、私がしたかったのは、普段見られているのとは違う仕方でその世界の一部分を提示することだけでした。撮影するということは、再解釈する手段なのです。子供のころは、絵画に魅了されていました。静物画が大好きで、当時の目標は世界をあるがままに模倣することだったんです。いまは、そうしたこと以外のあらゆることをしたいと思っています。

画像


――それから、家の中に入ってくる赤い悪魔がいますね。彼は道具箱を持っているのですが、その中身は明らかにされません。『昼顔』に出てくる箱もそうでしたが、中身について考えてしまいました。
 私にも質問する権利があると思うので聞きたいのですが、なんで中身を知りたいんですか?(笑)悪魔は私たちの人生の一部です。この映画は日常生活や想像された未来、幻想、記憶についてのものです。どれも純粋な自然主義の要素ですね!あの赤い悪魔は夢の一部とも言えますから、夢が現実に起こることだという意味では、同じように悪魔も現実的だと言えますし、他の人生の要素と同じように重要だとも言えるでしょう。スペイン人ゴルファーの写真を映画の中に挿入したのも同じ理由です。あの写真はある時代の終わりを表現しています。きわめて細かいことですが、映画に出てくる衣服や小道具には一切ラベルが貼ってありません。個人的に言えば、そのことは、ものに名前を付けることを強いられなかった良き時代に対する私のノスタルジーを示しています。そうした清らかさのある映像は、落ち着きを与えてくれます。私はブランドというのが好きでもなければ、それを必要ともしていません。

○次はこちらのインタビューです。どうやらカンヌでの上映の翌日にされたインタビューのようですが、前提知識として本作がカンヌでは酷評されたことを記しておきます。
http://artsbeat.blogs.nytimes.com/2012/05/27/cannes-film-festival-loud-boos-dont-faze-carlos-reygadas/

――カンヌは監督によくしてきたと思いますし、監督のキャリアにとっても重要な場所でしょう。しかし、昨夜の上映に対する反応を見ていると、冒険心のある映画監督にとってカンヌは本当に最高の環境だと言えるのでしょうか。
 短期的にではなくて長い目で見れば、映画を見てもらうことができて、それを気に入ってくれる人がいるかぎりは、そうだと言えるでしょう。今日はみんな「どうしたらあんなことをする度胸を持てるのか」と聞いてくるんですが、「自分が好きなものを、同じようにいくらかの人は好きになってくれるだろうと分かっているんだ」と答えています。古代のセネカは「よりよい芸術作品であるほど、その時点ではより強く拒絶される」と言いました、社会とはそういうものです。私にはどうしてみんなが、まるで私の配給会社の人々のようにあれほど心配するのか理解できません。彼らには「心配ご無用、たいしたことじゃないさ。光栄に思わないと」と言っておきました。

――あのような敵対的な反応を予想していましたか。実際、『闇の後の光』はこれまでの監督の作品に比べると穏やかなものだと思うのですが。
 ええ、本当にそうですね。この作品を観たメキシコの友人たちは、本作が敵意を引き起こすようなものではないと考えていました。でもご存じのように、ここにいる人々は疲れているし、批評することでお金をもらっているから、感じるよりも先に評価を下さなければならないと考えているんです。
 別の日に、誰の作品を観るのが楽しみかと聞かれたんです。私は、セルゲイ・ロズニタ(”In the Fog”)、ウルリッヒ・ザイドル("Paradise:Love”)、ダルジャン・オミルバエフ(『ある学生』)と答えました。私が苛立つことの一つに、なぜオミルバエフのような監督がコンペに入っていないのか、ということがあります。これは映画にとって良いことではありません。スターが出てくる映画が必要なことは理解していますよ。でも、今年のコンペのなかで、映画を作ることによって映画について考えようとしている作品が何本あるでしょうか。キアロスタミ、ザイドル、カラックス、多分5,6本ですね。

画像


――『闇の後の光』の話に戻りましょう。本作の独特な見た目についてお聞きしたいのですが、この作品は箱形の1.33 : 1のアスペクト比で撮影されています。そして多くのシーンでは、ハロー現象のような効果を生み出すレンズを使ったり、映像の中心に焦点を絞って周囲をぼやけさせたりする手法を使っています。
 なぜあのようにしたのかということですか?結局のところ、美的な意識とは世界の再解釈だからです。

――こうしたエフェクトを屋外のシーンでのみ使用したのはなぜですか。
 直感ですね。どういうわけか、(こうしたエフェクトによって)より屋外らしい感覚が体験できると感じています。外の世界というのは、印象主義が始まった場所です。それから、1950年代よりも前に造られたガラスのことも頭に浮かんでいました。当時の人は、完璧なガラスを造ったふりをしていたんですが、本当は機械は完璧ではなかったんです。そうしたガラスはちょっと曲がっていて、あまり反射を生み出しません。だから、そうしたガラスでできた窓越しに見ると、ガラスがあることを感じて、ものごとが違った風に見えます。そこには世界の再解釈があります。
 撮影した場所の風景は、とても独特なものです。『静かな光』はシネマスコープで撮りましたが、それは撮影したのがとても平坦で大きな風景だったからです。本作の風景は、急勾配の山々に囲まれています。それからまた、すべてが完全に四角い型の中心にあるという感覚が欲しかったんです。そういう仕方で構成された方が、ものごとがより尊重されるように思えたからです。

画像


――いくつもの点から、本作が監督の個人的な映画であるように思われます。お子さんが出演していますし、編集は奥さんのナタリア・ロペスさんが務めました。それから、ほとんどのシーンが監督に馴染み深い場所で撮影されています。
 あれは私が住んでいる村で、メキシコシティから南に80キロ、モレロス州にあります。本作は、その起源に関しては確かにきわめて個人的なものですし、出てくる場所や起こる出来事も私にとっては親しみがあり大切なものです。ただし、映画に出てくる人々の価値観は私のものではありません。彼らの人生観や他者に対する態度、関係のありかたを私が共有しているというわけではないんです。
 この映画は、私が田舎に自宅を建てていた数年のあいだに製作されました。そこの気候は陽光と埃、寒さが伴う荒々しいものです。同じころに、子供たちや犬を連れてよく山の中を散歩しました。その山は映画にも出てくるのですが、この体験を共有したいと思ったからです。妻が夫以外の男性とセックスをするサウナのシーンのような、いくつかのシーンがありますが、それはああしたシーンが欲望についてのものだからです。本作は幻想を扱っていますが、おそらくあのシーンは現実でしょう。私が提示したかったのは、あのように、ある程度までフラストレーションを溜めた人々は、ある種の境界を逸脱しうるということであり、それによって彼らは普通の人と比べて少し特別な人間になるのです。

――おそらく空想と現実の区別をしないことが、いくらかの観客を悩ますことになると思うのですが。
 区別するための解読コードはありません、それは最初からのアイディアでした。私はいつも、知的な観客たちに対して導こうとしたりする必要はないと考えています。私が奇妙だと思うのは、昨夜ここで映画を観た方々は学校へ行き、本を読む人たちでしょう。私自身と比べてこう言っているのではなくて――カフカの『変身』のことを思い浮かべてのことです。100年近く前に書かれた本ですが、主人公が本当に虫に変身したのかどうかは誰にも分りませんし、説明もありません。もし説明があったとしたら、確実に誰も『変身』をこれ以上は読まなくなると思います。彼らが『変身』やジョイスの作品を読むとき――私がジョイスと似ているというわけではないですよ――、なぜ彼らはそれらの本を読んで受け入れるのに映画を観るときになると説明を必要とするのでしょう?

――説明を迫るわけではないのですが、より不可思議なシーンについて監督個人にとっての意味をお聞きしたいと思います。たとえば、英国の男子生徒たちがラグビーをするシーンがそうです。監督はイギリスの学校に通っていたんですよね。
 はい、一年半ほど通っていましたし、ラグビーはとても好きなんです。あの身体性が好きなんですね。映画はポスト・モダン的でも相対主義的でもありません。ものごとは明快に説明されることができます。つまり本作はフアンという、生き、想像し、回想する男についての映画であり、おそらく私たちは彼の人生の断片を見ているのです。彼が若いころにラグビーをしていた可能性もあります。しかし最後にラグビーのシーンがあるのは、人生が続いていくこと、私たちは楽しみ続け、楽しまなければいけないということを意味するためです、メキシコでは血の雨が降り、たくさんの頭が引き裂かれているという事実は無視してね。
 ラグビーは映画にぴったりと合っていました。ラグビーの身体性は、(メキシコという)土地の暴力性、自然の暴力性、そして人生の暴力性に合っています。しかし同時に、愛があります。このイギリス人の少年が最後に言うセリフを私はとても気に入っています。それは多分バンカーに対して言っているのだと思いますが、こうです。「やつらは強い、やばいぞ。でも俺たちはチームだ、勝たせてたまるか。この調子だ、いくぞ」。この意味で本作は反抗的な映画ですね。

画像


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

誤訳などを発見されましたら、コメント欄・メールにてご指摘くださいm(_ _ )m

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 4
面白い 面白い 面白い
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
本日、東京国際映画祭にて『闇の中の光』観ました。鑑賞した後、しばらく放心状態でした。今までの監督の作品の中でも難解な映像言語の乱列で、頭の中でうまく整理できませんでした。しかし間を置くとこの映画はスルメのように噛めば噛むほど味が出るように様々な解釈が出来て見てよかった。また、こちらのサイトんで監督のインタビューを読んでまたもや再解釈できました。ちなみに自分は『JAPON』の頃からのファンでDVDは前3作品持っています!!
こんにちは。
2012/10/28 02:12
コメントありがとうございますm(_ _ )m
それでは同じ会場にいたわけですね(笑)。
自分も昨日観てから、ずっと本作が何であったのか
考えています。
本記事が少しでも参考になったのであれば嬉しいです。
おお、それはかなりのレイガダスファンですね、
また何かありましたらぜひコメントをお願いします(・∀・
ina
2012/10/28 15:59
受賞結果出ましたね。『もうひとりの息子』未見でした。inaさんは他に何を見ましたか?自分は今回『テセウスの船』『闇の後の光』『天と地のどこか』の三本を鑑賞できました。実は今回一番の収穫は新たなシネアストが発見できたことです。『テセウスの船』のアナトナ・ガンディー監督良いですね。過去の短編がyoutubeで見れますよ。Sharunas Bartas気にいってくれて良かったです。それでは!
mondo
2012/10/29 02:39
コメントありがとうございます。
自分は他に『眠れる美女』『リアリティ』などワールドシネマ中心に、ほかの部門も少しといった感じです。スケジュール的にコンペ作品はチェックできなかったのですが、グランプリの『もうひとりの息子』は昨日観ました。佳作とは言えそうですが……個人的にはもう一押しでした。

『テセウスの船』はコンペのなかではちょっと気になっていた作品で、どうやらシネフィルが好きそうな映画みたいですね。過去の短編もチェックしてみます。
コンペでは『NO』が観たかったのですが、どうしても時間が合わず断念しました。今年は例年より観る本数が少なく、無念です(笑)。

それからバルタス、時間が取れ次第ちゃんと観てみます。個人的にはかなり琴線に触れそうな監督なので、もしかしたら感想をアップするかもしれません。
それでは。
ina
2012/10/29 20:38

コメントする help

ニックネーム
本 文
『闇のあとの光』 カルロス・レイガダス監督 その2 ぷらねた 〜未公開映画を観るブログ〜/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる