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zoom RSS 『眠れる美女』 マルコ・ベロッキオ監督 その2

<<   作成日時 : 2012/11/12 22:23   >>

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いつも通り、監督インタビューをどうぞ。残念ながら東京国際映画祭に監督は来なかったので、鑑賞された方をはじめ、興味のある方はぜひご一読を。英語のインタビューは短いものしかなかったので、内容が少なくて申し訳ないのですが……こういうとき、イタリア語ができたらと思います(笑

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なお、本作の「その1(紹介・感想編)」はこちらからどうぞ。
http://planeta-cinema.at.webry.info/201211/article_1.html

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○監督からの言葉(原文はここにあるプレス資料)

 この作品を作るきっかけとなったのは、あまりに長く、あまりに公衆に晒されることになったエルアナ・エングラロの死をとりまく激しい感情でした。とりわけ私は、イタリア国民、メディア、政治家、そして教会からの抗議の叫びにショックを受けました。彼らの反応は、エルアナの父に対して私が抱いていた連帯感や称賛の想いとは対照的なものでした。
 しかし、そのとき気付いたのです。議論に対して一つの立場を固守することによって、私は自らの想像力を摘み取る危険を冒しているのだと。自分自身の視野を広げなくてはならないと……。

 私には待つ必要がありました。ですから、このアイディアについての仕事を再開し、そのプロセスを深めていき、エルアナとはまったく関係のない物語を生み出すまでには二年がかかりました。これらの新しい物語はそれぞれに独立しています。それは、エルアナのエピソードよりもずっと前の時期、私の全人生に依拠しています。つまり、私の少年時代、思春期、家族、幼少期に受けたカトリックの教育、私自身の政治的妥協、自らの道徳的原理、知的な一貫性の大切さ、そして命が脅かされながらも回復の可能性に満ちている状況――ロッサとパリドーの再生のように――で諦めてしまうことへの拒絶に依拠しています。
 このような私の辿ってきた道筋が、あとになって私のスタイルや、映像やドラマの構成を決定しました――あるいは、そうした要素があたかも自然に展開していくことを可能にしました。撮影中は、作品の多くの部分を即興で撮りました。大抵は脚本のセリフにしたがうのですが、それらは編集中にカットされました。

 エルアナの死がなければ、『眠れる美女』が生まれることもありませんでした。この映画にはいかなる先入見もあらかじめ決まった結論もありませんが、それにもかかわらず中立的な作品でもありません。芸術に「中立」は決して存在しないと思っています。この映画は誠実なものであり、なんらのイデオロギーにも基づいていません。特定のマニフェストでもなく、私は観点をオープンなままに残しました。この映画のテーマが活発な議論を生むこと、そして私の作品が共鳴を見出すことを期待しています。

マルコ・ベロッキオ

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○ここからインタビュー(原文はここ

――映画はエングラロのもっとも劇的な瞬間を辿り直していきます。それはほとんど心理劇のようです。
 エングラロ事件は新聞やテレビ、インターネットで大々的に報じられました。その一方で、エルアナが引き取られた病院の前で抗議をする人はわずかでしたし、ほんの一握りの議論がなされただけでした。この間にイタリアは、一方では憲法を守ることに力を入れ、他方では安楽死を阻止する法律のために奔走していました。ある種のグリフィス・モンタージュのような状況のなかで、あの哀れな少女の生が自然な結末へともたらされるにもかかわらず、大きな不安がありました。

――作中では、政治家とは精神的に病んでいる者だという皮肉な定義が出てきますね。
 政治家に対する嫌悪感があるというわけではありません。そうではなくて、彼らの絶望感や失望感を目立たせたかったのです。盗みをしたり、ソファでごろごろしていたいと怠惰に願うことよりもずっと人の心を奪う病的な非人間性の形があります。それが彼らの持つ絶望なのですが、彼らはそれに気づいていないんです。

――映画ではまた、カトリック世界にも光を当てています。それは、自分自身については決して疑うことをせず、自分とは違う立場についてはわずかなスペースも与えない世界です。
 エングラロ事件についての様々な立場について語ろうという方法的な意図はありませんでした。ただ私が熱心になった物語が、カトリック世界の人々も巻き込まれることになる物語だったのです。私が幼少期に受けたカトリック教育は、私がカトリックについて知っているということ以上のことを意味してはいません。そのいくらかは消すことのできないものですし、私たちそれぞれの魂のなかに残っているものです。(対立する二つの立場から)等しい距離にある立場はありえませんし、客観的に物語を語りたいというのも無駄な考えです。私は何人かのカトリック教徒とは、良き関係を築いています。彼らとのあいだには、対立や好意、議論をかわす余地があります。それは、私がミケーレ・リオンディーノとアルバ・ロルヴァケルが結ぶ関係のうちに見出す興味深いものでもあります。というのも、彼らはロミオとジュリエットのように対立する立場に属しているからです。彼らはこう言います。「たとえ君が信仰を持っていて、僕は持っていないとしても、僕らは愛し合うことができる」、と。

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――本作のテーマの一つとして、犠牲ということがあります。そして、誰もが他者に頼って生きているということも事実です。
 犠牲というのは、実際にはカトリックの宗教的概念です。私は自分の命と幸せを犠牲にします、とね。私たちは犠牲について教えられましたが、それが苦悩を招くんですよ!

――本作はイタリアでは、安楽死についての議論を再開したカルロ・マリア・マルティーニ枢機卿が亡くなった数日後に公開されています。
 べつに私がひねくれているというわけではありません。映画のなかのスキャンダルはもはや存在しません。なぜなら、インターネットのように、人々のもとに最初に届くコミュニケーション手段が他にあるからです。そして、そうしたメディアが他の可能性を消してしまうのです。私はいつも、それまで大きな重要性を持ってはこなかったスキャンダルの要素を利用して良い映画を作ろうとしてきました。

――監督は(本作が撮影された)フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州について、映画の資金援助ができないようにフィルム・コミッションが廃止されることを恐れていましたね。
 (同州にある)ウディネの自治体が的確に、かつ注意を払って協力してくれました。おかげで私たちは一週間に及ぶ病院の外での撮影を行うことができたし、問題も起こりませんでした。事件もなければ、市民からの苦情もありませんでした。私は政治的な理由だと確信しているのですが、そうした理由から、州や地域――中道右派の政党が支配的です――はボイコットをあとになってけしかけたのです。映画が受けたのは、私が予期していたものでした。この出来事がグロテスクであるのは、支配階級の破壊的な側面を示していると思いますが、彼らが政治的原理という名のもとで、地域のフィルム・コミッションを廃止しようとしたことです。

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