『Three Monkeys/スリー・モンキーズ』 ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督 その2

『スリー・モンキーズ』についての監督インタビューを、uk版DVDの特典から翻訳してみました。30分にわたるインタビューなので、内容は充実したものになっていると思います(´∀` 映画をつくる手法が監督の中でしっかりと固まっていることが伺え、映画祭やシネフィル・イマジカで他の監督作を観た方にも一見の価値があるのではないでしょうか。

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本作の「その1(紹介・感想編)」はこちら。
http://planeta-cinema.at.webry.info/201011/article_3.html

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 タイトルを決めたのは比較的遅めでした。『スリー・モンキーズ』というタイトルに決めたときには、もう編集は終わって、音響の編集も中盤にさしかかっていました。アイディアを思いついたのはある午後のことで、ミーティングでエブルから提案を受けた後のことでした。はじめ、このタイトルはとても奇妙なアイディアだと思いましたが、よく考えてみると、この作品に完璧にフィットしていると思ったのです。以前のタイトル案は作品にあっていないと感じていたので、不思議な感じもしますが、私はこのタイトルを選びました。というのも、このタイトルは作品のテーマに対して適切なものだったからです。この作品のキャラクターたちは痛みを抱えて暮らしています。彼らは自分を守ろうとしたり、真実を隠そうとしたり、自分がついた嘘を受け入れようとしているように見えます。これはキャラクター全員に共通しています。最近では、スリー・モンキーズ、すなわち三匹の猿のメタファーは、私たちが自分自身を欺く方法としてみなされており、人間の実際の行動を説明しています。だから、私はこのタイトルにしたのです。

 脚本を書き始めたときの最初の動機は、私が今までに見たことや、印象的であった事柄に関係していました。とくに、若い頃のことや、故郷の村でのことです。それらの様々な出来事は、深く、そして消すことのできない跡を私に残しました。一例として、どんなことがあったとき息子は自分の母親を引っぱたくのだろうか――これは私の関心を引くことであり、かつて私が見たことです。こうしたことが、たいてい私が映画に取りかかるアイディアとなります。私には…母親が不倫をしていたという経験を持つ知人がいますが、こうした記憶から生まれたものが、なんらかのものに発展していくのです。

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 今回は三人で脚本を書きましたが、これは初めてのことでした。どの映画でも、いつもおきまりのパートナーがいました。一緒になって、アイディアを出し合うパートナー、エブル(監督の奥さん)です。これまで、彼女以外の人が脚本を書くことはありませんでした。彼女は頻繁に議論を交わすことのできる親友でもありますが、医者としての訓練を受けていました。彼女も製作に参加しましたが、加わったのはやや遅いころです。二ヶ月で物語の枠組みは出来上がりましたが、肉付けをする必要がありました――セリフやキャラクター間の関係などのね。それで私たちには新鮮な目が必要となったのです。
 私たちが脚本を書く上でとった手順はシンプルなものです。毎日、三人で会うこと。そして、考えるシーンによっては非常に長い時間をかけて議論をする。お互いに持っているアイディアを交換し、もし三人が一致しない提案があった場合には、理解できるようにする必要がありました。こうしてディスカッションをして得た新しいアプローチを携えて家に帰り、異なる視点から問題となったシーンを書きなおすのです。そしてまた次の日に、お互いに書いたものを交換する、という風にね。

 私たちはほぼ三カ月にわたって定期的に会い、ついに脚本を書き終えました。しかし一度書かれた脚本は、同じままであることはありません。私の意見では、脚本を書き終えることはできますが、大抵それは単に将来の基準点を与えてくれるということにすぎません。映画を作り終えるまで私のアイディアはつねに流動的だからです。野外撮影中であっても、俳優たちとの準備段階で、脚本が変更可能であればすぐに伝えます。ですから、(スタッフは)きわめて注意する必要があるし、適切ではないと思える箇所は書き直します。それはセリフだったり、正しい心理的な雰囲気をつくりだすことだったりしますが、そうしたすべてが不可欠な変更を求めているのです。ロケーションの状態に適合する能力が、監督の義務となります。

 たとえば、母親が(政治家に)金銭を要求し、家に帰って息子にお金が支払われることを伝える場面があります。はじめの脚本では、このときそれを聞いた息子は喜ぶのです。しかしそのシーンを撮影してみると、私にはそれがリアルではないと思えました。むしろ私は、息子が失望する様子を見せたいと思うようになりました。そういう意図を持ってあのシーンを撮影したのです。テイクを重ねるうちに、やはりそちらの方が正しく、人間を駆り立てるものに忠実であると考えました。なぜなら、道徳に反していると感じる選択によってなにかを得るときには、人はなにか悲しみに似た感情を抱くからです。

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 政治的な側面についていえば、私たちはこのテーマをより深く追求したいと思っていました。事実、そうしようと計画を立てていたくらいです。近づいてくる選挙とともに撮影するためには、私たちは計画を一ヶ月で進めなくてはなりませんでした。ミーティングで撮影したり、街中で撮影したりして、この政治的な雰囲気の中で、選挙であったり政治家であったり、様々なものをカメラに収めました。しかし結局は、それらを見せるのは最小限にとどめることに決めました。というのは、人間としての私たちの琴線に触れないものは…政治といったようなテーマは、中心的なことがらではないからです。そういうものは、魂の苦痛についてなにも明らかにしませんし、この作品は絶対にそうしたテーマを扱ってはいません。だから、すべて背景の中に押し込めてしまうことにしたのです。政治的な要素は、意図的に脇へと追いやりました。
 私たちはもともと人間の本性や、その本性の痛みに焦点を当てていました。それが私たちの最初のモチーフだったので、異なることについての言及はカットしたのです。この決定がなく、政治的なテーマをもっと発展させていたならば、観客の記憶に残るのは政治的な部分だけになっていたでしょう。

 完成した作品にどのシーンを残すかという選択は、主に編集作業中に行います。あらかじめ予測する能力がないのでね。映画はとても特別なものです。なぜなら、その映像の一つ一つは、観客がまとめる瞬間まで、いかなる意味も持たないからです。私の意見では、あらかじめ映画の結末を予測できる人は――それは可能に違いありませんが、そうした考え方は、映画製作を教訓主義に押し進めることになると思います。映画監督にとって、映画製作には、あらゆる可能性がつまっています。編集から音響にいたるまで、それは不断の冒険なのです。より多くの可能性や視点を引き出すために、作品の豊かさを増すために、私は異なる選択肢について考えるのをやめたことはありません。映画製作と私たちの精神との関係……私たちはまだ映画の持つ力を完全に引き出せてはいないと思います。私はいつも、自分の作品にもっと内容を与えてくれるものを探しています、映画のラストにいたるまでね。それがつねに私の主要な関心事項なのです。
 個人的にですが、私の映画では、編集が絶対的に重要な意味を持っています。撮影中、その映像がどのような印象を与えるのか、そしてそれが真実味のあるものになっているのか確信が持てないので、テイクを重ねることで感情のいくつかのレベルに達するよう試みています。選択の幅を広めるために、私はいくつかのバリエーションをもって撮影します。そして編集の最終段階で、映像と感情をマッチさせるのです。

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 選挙に合わせて撮影するために、私たちにはあまり時間が残っていませんでした。どの女優を起用するかは、撮影がはじまる四日前になって決まったほどです。それ以外のキャストについては、キャスティング・エージェンシーが選んだ人々の中から写真を見て選び、短いテストをしてもらいました。素人に関しては、いろいろなところにアシスタントを派遣して撮影してきてもらいました。そのあとでテスト撮影を見て、映画で起用したいというイメージに対応している人々を残していけば、次第に数は減って3、4人に絞れてしまいます。興味深いことですが最終的には、一人は素人で、もう一人は舞台出身の女優、最後の一人は歌手というプロとアマが混ざる結果になりました。

 エユップを演じたヤヴズ・ビンギョルは歌手として有名ですが、テレビドラマやいくつかの長編映画に出演した経験がありました。彼は知的で、指示に適応する能力がありました。彼は監督しやすいので、この作品の他の俳優たちと比べて、一番即興で演じてもらったと思います。彼はとても複雑な経歴の持ち主で、貧しかったことで知られていますが、様々な仕事をしてきました。たとえば、道路工事の作業員をしていたこともあります。多くのことを経験してきた人間です。彼の演技についていえば、その経験や過去があのキャラクターを演じるにあたって非常に役立っていました。私は脚本(どおりに進めるか)を気にしていましたが、彼の即興演技に納得したあとでは、それ以外のことはささいなことでした。彼はそのような(即興の)才能があったので、成功したテイクのあとであっても、あるいは十分に満足できる出来のものであっても、「もし君がエユップの立場だったら、何をして、どんなことを言う?」といって私は彼に即興演技でやり直すように求めました。こうした状況で、私の期待したとおりに撮影されたテイクであっても、彼の方から私の想像していたものを超える提案が出されたりもしました。結果は、これまでの彼の仕事の中でも充実したものになったと思います。

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 妻役の女性を探すには、少し困難がありました。私は本当にハティジェの外見を気に入っているのですが、彼女の言葉遣いや演技がやや劇場的だったからです。それで、私は自分の選択を少し心配していました。とくに作品の前半を撮影しているとき、大げさだと感じるものを避けるために、ちょっとしたトリックを使う必要がありました。ヤヴズは即興で演じる仕方を理解していたので、たびたび彼にもそのテクニックを使ったのですが、ハティジェに対する私のアプローチの仕方は、指示を少なくするというものでした。ただし、彼女がきわめてプロフェッショナルな俳優であることははっきりさせておきたいと思います。それから、彼女が常に正しいトーンを見つけようとしていたこともです。後半、彼女によってキャラクターが具現化されるとき、彼女は自らの型から解放されていました。誇張なしに、私は彼女の演技に驚かされたのです。

 息子役の青年は、演劇学校を卒業したばかりで、まったく経験がありませんでした。はじめの一週間、彼はとても緊張していて、とても心配したものです。どうなるか予想もつきませんでしたね、歩くといった基本的な動きさえできない状況でした。しかし、妙なもので、一週間経つと彼はリラックスしました。そのあとは万事が順調になりました。
 撮影を開始する前に、私はリハーサルをしません。ですから、リハーサルは撮影のはじめの数日間の過ごし方を複雑にさせます。しかし、それが終われば、俳優に違う指示を出し、異なる方法やアイディアを見つけされてくれることになります。もし最後にうまくいかないことが分かれば、少しずつ新しい方法を取り入れていくだけです。
 しかし、たいていの場合は、私は脚本にきわめて忠実に撮影しています。私は脚本を出発点として活用しているのです。そして、実際に撮影したものを見て、いくつか改善したりします。もっともらしく思えるものを一度でも得られたら、他の可能性が見つかることを期待して、少しアドリブを入れることもできます。ときには、時間をかけても何もうまくいかないことがあります。意図したものを作り出すことができず、すべて失敗する。そういうときには、私は違ったテクニックを使ってみます。そうすることで多くの予想外のできごとが得られるからです。たとえば、隠れて撮影をするという方法があります。クルーと一緒になって合図を決めて、俳優たちが演技をし始めると、カメラのうしろには誰も残らず、みんな去っていってしまう…隠れて撮影していると、俳優たちの演技は、心配から解放され、自然でなめらかなものになります。私たちはしばしばこの方法を行いました。

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 前作『Climates/うつろいの季節(とき)』では、私は演技をしていたので、誰かにカメラを委ねる必要がありました。しかしその経験は、いつも自分自身で撮影している必要はないということを教えてくれました。それでも起きていることをコントロールすることは可能ですし、より俳優たちの演技に集中することができるようになりました。撮影については、私の撮影監督は指示にしたがって動いてくれています。それから彼自身も、多くのことに貢献してくれていて、私は完全に彼の提案に対してオープンになっています。とても刺激的な環境です。

 もともとは、この映画はシネマスコープで撮られる予定ではありませんでした。私はデジタル・フォーマットで撮影し、すべてのショットはそのフォーマットに基づいています。しかしポストプロダクションの間に、シネマスコープを選ぶことにしたのです。映像をシネマスコープへと直す際に、上下の部分を切り取りました。

 作業の最終段階はサウンドです。音響の編集に先立って、私たちが撮影をはじめたとき、色使いにはあまり時間を割きませんでした。それは、ポストプロダクションのときに変更したくなった箇所を処理することができるからです。事実、撮影が終わると、作品の雰囲気を引き出すために最適な映像と色を見つけ出す仕事に着手します。私は世界に彼らだけしかいないような印象を与えたいと思っていました。色と音は、そのために使った二つの要素です。画家は、筆やパレット、お気に入りの色、それから好んでいるテーマを使って創造します。同じことを私は映像によってしているのです。
 私は過剰に音楽を使うことに乗り気ではありません。音楽は松葉杖のようなものだと思っています。ですから、常にできるかぎり使わないように努力しています。今まで、その試みは納得のいくものにはなっていませんが、しかしいつも付きまとってくるアイディアなのです。ただ、今回は音楽を使いたいと思っていました・・・それは私が望んだのか、あるいは作品の方が望んでいたのかもしれません。しかし、結果的には、それは適切ではありませんでした。音楽が小休止を意味しないときには、観客は、演技が副次的なものとなっているような一休みする長いシーンを見つける必要があります。しかしこの映画にはそういうシーンはありません。編集中にきわめて多くのシーンをカットしてしまったからね。それで音楽を追加しようとは思っていなかったのですが、この問題に直面して、考えを変えることにしました。最終的に成功した試みというのは、これがはじめてでした。

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この記事へのコメント

PineWood
2015年10月01日 05:38
映画(スリーモンキーズ)は家族という共同体の持つ虚実をめぐる作品。生活の為に轢き逃げを代行した男が、出所後にどういう目に会うのかというストーリー展開そのものはアントン・チェホフ風と言えるかも知れません。山田洋次監督、寡黙高倉健の(幸福の黄色いハンカチ)とも共通する愛のドラマとも見えます。また、亡くなった次男の存在がシュールに夢のように挟まれて映画の魅力を一段と匂いたつものにしている。

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