『カサバ-街』&『5月の雲』 ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督インタビュー

紹介してきた『カサバ-街』と『5月の雲』についてのジェイラン監督インタビューの邦訳です。以前にも翻訳したティーチ・インでのインタビューですが、監督自身の話など面白い内容になっていると思います(・∀・ 新作の日本公開も待たれますが、この記事でどんな監督なのかチェックしてみて下さい。

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インタビュー原文はこちらからどうぞ。
http://www.guardian.co.uk/film/2009/feb/06/nuri-bilge-ceylan-interview-transcript
このインタビューのうち、『UZAK/冬の街』と『Climates/うつろいの季節(とき)』 についての部分は
こちらの記事で邦訳しています。

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まずは『カサバ-街』についてです。

――この映画に出てくるおじいさんは監督のお父様であり、おばあさんは監督のお母様なんですね。それから他のキャラクターとして、いとこも出演されています。他に親戚は出ていますか?
 いいえ、もういませんね[観客の笑い]。

――このこと(監督が親戚を俳優として起用していること)は、監督の作品における映画製作へのアプローチの親密さを強調していると思います。この映画は、トルコの小さな街で成長することについての作品です。本作は監督ご自身の経験とどのくらい近いものなのでしょうか。
 きわめて密接な関係があります。とはいえ、この作品の映像を見ることは私にとっては驚きでもありました。もう10年くらいは観ていなかったでしょうか、私は自分の作品を観ないので。ADR、つまりアフレコがひどかったですね。それから、この作品のときにはいいカメラを持っていませんでした。自分で出資していましたから。私たちはプロを雇ってアフレコをしたのですが、うまくいきませんでした。とくに子供たちや女性のパートですね。そうした悪い経験がありましたから、これ以後は撮影するときにはいつもサウンドも一緒に録るようになりました。
 それから、そうですね、この作品はとても自伝的な作品です。いろんなことを思い出しながら、そうした思い出をここで一つにまとめています、。しかし、どの部分が現実にあったことで、どの部分がフィクションであるかということはどうでもよいことでしょう。脚本を書くこと、映画を作ることというのは、ある種のコラージュのようなもので、とても混沌としていると思います――音楽を作曲するみたいに。すべてを一つのハーモニーの中に調和させるのです。ときには砂糖を入れてみて、ときには塩も加えてみる。そういうわけで、この作品にも様々なことがらが含まれています。そして、この映画の大部分は私の姉妹の思い出、とりわけ会話に由来しています。しかし、第一部は教室の中が舞台ですが、自分自身で書いたものです。

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――同様に、チェーホフの要素もありますね。
 おっしゃる通りです。実際、私の作品のすべての中にチェーホフの要素があると思っています。というのもチェーホフはたくさんの物語を書いていますから。彼はほとんどすべてのシチュエーションについての作品を残していて、私はそれらが本当に大好きなんです。だから彼は私の人生観に影響を与えていると思いますし、ある意味では私の人生はチェーホフを辿ることでもあるのだと思います。チェーホフを読むと、彼が書いたシチュエーションと同じ状況を現実の生活においても見出すようになるでしょう。そして脚本を書くときにも、何らかの形で私は彼の物語を思い出しています。ですから、そうですね、チェーホフはこの中にいるわけです。

――姉妹のお話がありましたが、彼女はたくさんの作品を持つ写真家であり、あなたも映画監督であると同時に写真家でもありますね。芸術家の家系に生まれたのでしょうか。そして、どのようにして映画製作の道に進んだのですか。
 実際の話、子供のころの環境にはまったく芸術がありませんでした。小さな街で暮らしていて、芸術といえば、民族音楽か映画かといったくらいでした。展覧会のようなものもありませんでしたね。ときどき自分でも、どうして芸術に傾倒したのか不思議に思うくらいです。そのきっかけは多分、イスタンブールで生活するようになった高校時代にあります。自分でも本当に分からないのですが、私も姉妹もいとこもみんなどういうわけか芸術に傾倒しました。誰かが写真撮影に関する本をプレゼントしてくれたことは覚えています。それが始まりだったのではないでしょうか。だから、小さな子供にプレゼントを買ってあげるときには注意しないといけないね[観客の笑い]。あの本は私の人生を変えたと思います――写真を撮ることがとても面白いもののように感じさせたのです。暗室を作って写真を現像し、やがてこれは芸術であると気づいてきました。そしてその気持ちは大きくなっていったのです。姉妹は私のあとで写真を始めました。

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――映画製作に移ったのは?
 それほどよく覚えてはいないのですが、当時はビデオカメラがなかったので、映画を撮ろうという考えを思いつくこと自体が困難なことでした。ビデオカメラは一部の人間たちだけが持っているものでした。大学を出てからずいぶん経ったあと、兵役の間でさえ、映画を作ろうとは考えませんでした。みんなと同じように映画を観るのは好きだったのですが。
 私の人生を変えたのは、映画製作に関する本を読んだことだったと思います。兵役の間に読んだロマン・ポランスキーの自伝に影響を受けました。ナチスの収容所でゼロからの出発をしてハリウッドにまで到達した彼の人生はとても冒険心のあるものに思えました。それからその本の中では、映画を撮ることが私には簡単なことに感じられたんです。そういうわけで映画に関する本を、技術的な側面に関する本も含めてたくさん読み始めました。あるときに、35ミリで撮影された短編映画で演技をする機会があり、そこで映画製作の全過程を見ることができました。それが終わってから、私はそのカメラを買い取りました。Arriflex 2Cという、マシンガンみたいな騒音を立てて動くカメラでした。一番難しいのはスタートを切ることで、カメラを買った後も10年間は映画を撮れませんでした。しかしそのあとで、このカメラを使って短編を作ったんです。はじめは写真を撮るように映画を撮り始めました。しかし、自分ではフォーカスを引くことができなかったので、映画の途中でアシスタントを加えることにしました。その二人と一緒になって、私は短編を作りました。その作品の中でも私の家族が出演していて、(撮影するのが)一番難しい映画だったと思います。そのあとで、また二人のアシスタントだけで、はじめての長編を製作しました、この作品です。もちろん俳優たちも荷物を運ぶのを手伝ってくれましたし、そうして映画を作ることは可能だと思うようになりました。それからは、ずっと簡単なことになりました。

ここからは『5月の雲』についてです。

――明らかに『5月の雲』は、前作からつながっている部分があります。監督は、何らかの仕方で、自分の作品がそれぞれつながっていると感じますか。監督は続編を作るわけではありませんが、なんらかのつながりがあります。
 そう思います。映画を作り終えたとき、まだこうしたテーマについて言うことがあると、『冬の街』を撮り終えるまでは感じることがありました。それは多分、それらの作品のあとで何が起きるのかが私には分かっているからでしょう。それらの作品は私の人生ときわめて密接な関係がありますから。とはいえ、こうした決断は直観的なもので、前もって計画されるようなものではありません。初期の作品を撮り終えてからずっとあとになって、こうした決断をしたんです。

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――作品の主人公である映画監督は、映画のために両親を利用します。街から小さな村に戻ってきて、人々が見ていないときにカメラのスイッチを入れ、彼の家族を使おうとするわけです。この作品には、自己批判的な部分があるのでしょうか。
 そう思います。この映画を製作する前からビデオカメラは製造されていて、私は実験したり研究するために買ってみました。そして、故郷でいろいろなものを撮ってみたり、両親にインタビューをしてみたり、祖父に質問をしてみたわけです。それから脚本も書こうとしていましたね。イスタンブールに戻って撮影したものを見ると、そこには身勝手な自分が映っていました。祖母が私に何かを伝えようと話しているのに、私は映画か何か他のことを考えていて、まるで聞いていないのです。この経験は、私の中に罪悪感のようなものを引き起こしました。私は自分自身が好きではなかったし、ほとんどの映画監督や芸術家たち、そしてとりわけ都会に住む人々の中にも、こうしたナルシシズムが存在していると思います。田舎に住む人々は持っているものすべてを与え、私たちはそれを受け取っていきます。しかし彼らが都会に来たとき、私たちは彼らに何も返しません。だから『UZAK/冬の街』はこのシナリオの延長にあるといえるのです。

――監督のキャリアにおいて興味深いこととして、脚本・監督・撮影・編集・プロデュース、そして映画の販売まで手がけていることが挙げられます。あなたはすべての一人でこなしていますが、これはきわめて異例なことです。こうしたことは監督にとっては過剰な仕事でなかったのですか?それとも楽しんでいたのでしょうか。
 私は助監督、あるいはなんらかの形で他の作品に携わったことがないので、他の映画監督がどのように作業しているのかを学んだことがありません。すべて本を読んで独学し、セールスやマーケティングといった面も含めて映画製作のあらゆる側面を勉強したんです。カンヌでも私は作品を自分で売っていましたし、自分の作品を自分で売っているのは他にアフリカのアブデラマン・シサコだけだと言われました。本当にまれなことらしく、配給業者たちは驚いていたようでした。映画の販売についても確かに学びましたが、二度とすることはないでしょう。いまの私はプロデューサーと映画監督、それですべてです。しなくてもいいことだったと思いますが、当時の私は知りたかったんです。映画監督は多くのことを、とくに技術的な側面を知っておくべきだと思っています。そうしないと、技術的な部分を担当する人々の言いなりになってしまうからね。そうした技術的な側面を知っておけば、彼らとコミュニケーションを取れるし、よりよく監督できるようになるでしょう。

――(映画のメイキングを見て)本作の製作中、あなたがお父さんに次に何と言うかセリフを教えている場面がありましたね(作中でムザフェアも同様のことをしている)。実際にはどのくらいうまくいったのでしょう。
 あれは、第一作の撮影の経験をきわめてリアルに反映しています。私たちは二人しかいなかったのに、それで全員をコントロールしようとしたのですから、めちゃくちゃなことになりました。本当にね。

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この記事へのコメント

PineWood
2015年10月01日 05:17
映画(カサバー町)の教室のシーンや雪の中で遊ぶシーンは羽仁進監督の(教室の中の子どもたち)やジャン・コクトーやジャン・ヴィゴ作品を連想させてとても気に入ったシーンです!短篇(繭)のサイレントの自主映画風な或は実験映画タッチ の延長にある家族の肖像・幼年時代の記憶に結び就いた作品。

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